『家庭教師』
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『家庭教師』

 「ここ、間違えてる」

 背後から覆いかぶさるような気配と鼻をつく仄かな香りに私の心臓は跳ね上がった。
 後ろから伸ばされた腕が私の肩をかすめ、その指先は方程式の一部を指差してる。
 私が志望する大学の2年生で、3歳年上の家庭教師。
 それが今の私と彼女の関係。

 好きだと気づいたのはいつだろう。
 多分、惹かれたのは一目出会ったその瞬間から。
 けばけばしい化粧や派手な服装とは無縁なのに
 いつも洗いざらしのTシャツやワークパンツのようなジーンズ姿なのに、
 どこか女性特有の柔らかさを持っていて、彼女はとても綺麗で可愛らしかった。

 穏やかで柔らかな普段の声。朗らかで快活な笑い声。しなやかで伸びやかな手足。
 私が何一つ持ってなくて、でも欲しいすべてを持っている。
 そして私の志望する大学の学生である彼女。

 担任にも塾の担当教員にも今のままの学力では到底無理だと言われているその志望大学。
 それでも彼女は
 「やるだけやってみましょうよ。諦めるのは落ちてからでも遅くないから」
 力づけてくれるようにそう言って私の背中をそっと叩いてくれた。

 それはまるで世界中のすべてから拒否されていた私を、
 一歩も前に進めなくて立ち止まって途方に暮れていた私の背中を
 そっと押してくれるようなそんな温かさと優しさを持っていた。

 その代わり教えてくれる時の態度はとても真摯で厳しく、
 私の浮ついた恋心などたちまち吹き飛んでしまうほどに辛辣な時がある。

 それについ私が涙ぐむと、ちょっとだけ困った顔をして、

 「どうしても受かって欲しいから、もう少しだけ一緒に頑張ろう」

 そう言ってまた私の背中を宥めるように叩いてくれる彼女。
 その瞬間吹き飛んでしまった恋心があっという間に戻って来て
 吹き飛ぶ前よりもっと好きだと気づかされてしまう。

 合格すれば一年間は同じキャンパスに通えるのだ。
 それを思えば今以上に頑張れる。頑張らなきゃならない。
 自分のためにも彼女のためにも。


 大学を見学に行きたいという私に、励みになるからと案内してくれる事をかって出てくれて、
 デートと言うわけじゃないのにドキドキして前の晩は眠れなかった。

 キャンパスを案内してもらって学食に落ち着いて

 「どうだった??」

 と訊ねてもらって。
 ぼんやりと彼女のすらりとした指を眺めていた私は急に現実に引き戻された。

 「楽しかったです。どうしても合格してここに通いたい……」

 私の言葉にふわりと優しい笑みがその顔に浮かぶ。
 どうしてこの人はこんなにもすべてにおいて私を惹きつけて止まないのだろう。

 こんな人間が存在することさえ知らなかった。
 恋がこんなにも一方的で暴力的だとは思ってもみなかった。

 「あれ〜、可愛い子連れてどうしたの〜??」

 私達の柔らかな空気を突き崩すように無遠慮な声がかかる。

 「ふふふ。私の教え子。来年受験生なのよ。今日は見学に来たの」

 「そっか、カテキョしてるんだもんね」

 突然現れた彼女の友達は私が呆然としている間に
 必要最低限の連絡事項と私への軽い謝罪をして離れて行った。

 「――合コンとか、良く行くんですか??」

 二人の会話のその部分だけを呆然としながらも何故か私の耳は的確に拾っていた。
 彼女はちょっと考えるように宙に眼差しを彷徨わせて、

 「ああ、私は人数合わせに誘われて。断れない相手っているしね。
 大学って言ってもそんなに毎日毎日合コンしているわけじゃないのよ。
 一部にはそういう人もいるけど、普通はまあ時々、ね」

 初めの自己紹介の時、恋人はいないって言ってたけれど、欲しくはないのだろうか。
 思わず訊ねると、

 「ああ、今は必要ないかな。私の場合完全に片思いだし……」

 彼女は照れたように笑って完全に冷めきった湯気の出ていないコーヒーを飲み干した。
 その日は家庭教師の日だったのでそのまま一緒に私の家へ帰って、勉強を教えてくれた。
 私の知らない彼女は確実に存在する。

 家庭教師と教え子という関係以外の彼女は私にはあまりにも遠かった。
 デートでもないのにどきどきわくわくした気持ちはすっかりしぼんでしまって、
 勉強を教えてもらいながら、幾度か彼女に心配そうな顔をさせてしまった。


 柔らかな身体の曲線。媚を売っているわけではない、ほんのりとした薄化粧。
 邪魔にならない程度のアクセサリーを身につけ、若々しいパンツスーツで彼女が私の部屋に現れた時、
 私はそうと知った。

 「今日、デートですか??」

 さりげなく聞いたつもりでも私の声は震えていた。

 彼女の装いがあまりにも彼女らしくてそれでも美しくて、私の大好きな彼女のままだったから。
 もちろん私のために装われた訳ではないけれど。

 「え、どうして?」

 「先生、おしゃれしてるし綺麗だから……」

 びっくりした顔の後、彼女は破願した。

 「ありがとう。ほら、例の合コン。いつもの格好じゃ流石にアレだから、
 ちゃんと化粧して来てって釘刺されちゃったの」

 ぺろりと出された舌はいつもより紅い唇に、潤いを与えて、
 私は自分の身体が急激に熱くなるのを感じた。

 嫉妬なのか欲情なのか、
 その感情に戸惑っているうちに彼女の表情が一転して厳しくなり、勉強が始まった。

 「無駄な事は何一つないから、一つ一つ覚えて行きましょ。一番大事なのは積み重ねだから」

 気を散らしがちな私の気を引きつつ、一つ一つとても丁寧に判りやすく説明してくれる。
 いつしか私は合コンの事も彼女の好きな相手のこともすべてを忘れて、勉強に集中していた。
 自分の鉛筆を走らせる音と、静かな彼女の息遣いだけが静寂に支配された私の部屋に密やかに存在する。

 「――じゃあ、今日はここまでね」

 まるで夢から覚めたようにその言葉に我に返った。
 私が大学に入学するまで彼女とこうして勉強が出来る。
 とても親密で濃密で厳しいけれど優しくて温かな時間を共有できる。

 私はお金を払って彼女の時間を買っている。
 そう思うと悲しいような寂しいような、それでもほんの少し嬉しい気持ちになる。

 まだ、もう少し一緒に居られるから。
 もうしばらく彼女を見る事を許される。

 この気持ちを告げることはないけれど、いつか、遠い未来に、彼女と再び会う事があれば、
 この気持ちを憧れにすり替えて彼女に告げてもいいだろうか。
 憧れていた、大好きだったと過去形で。

 いつか……。

 柔らかな笑顔でさよならの挨拶をする彼女に、私はこみ上げる熱いものを懸命に飲み込んで手を振った。

 「また!」

 この苦しい恋をいつか優しい思い出に変えて、あなたと同じ大学に通うために、
 私はもっともっと精一杯頑張ろうと、さよならと彼女に振った手を強く硬く握り締めた。


                                            2006/06/04 不知火あきら







【かじ→不知火あきら様】

すみません、図々しくもリクエスト2つもしてしまいまして。
リクエストを当初聞かれていた時、手紙の先生Sideと、家庭教師と教え子という2つのリクエストをしました。
学校の先生と生徒、同級生、先輩と後輩、それぞれ自分で書きましたので、それ以外では・・・と
考えた結果、より限定したシチュエーションの家庭教師と教え子をリクエストしました。

不知火様が書かれたのは、教え子視点で、年上の人への憧れと想いとせつなさが、見事に書かれていて
本当に読んでいて、胸がキュッと締め付けられる思いです。不知火さまの文章は本当に素晴らしい。

学校の先生よりも近い存在の家庭教師との関係は、ある意味ストイックなものを感じさせますね。

これを読むと、素敵な年上の家庭教師との思い出を自分の中で勝手に想像してしまいます。
素敵な年上の家庭教師・・・、是非巡り会いたかったものです。(残念)

不知火さま、素敵な小説をありがとうございました。

                                                  2006/06/04  かじ