『家庭教師』
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『その日』

 その日はひどく穏やかで、だからとても胸騒ぎがした。

 嫌な予感に駆られながらも正門の奥に張り出される合格発表を見に行く。
 既に春休み中なのに私は3年近く通っている自分の大学へ殆ど無意識に到着していた。

 まだ発表時間前だった。
 たくさんの受験生がこれから発表される合格者の番号を見るためにひしめき合っていた。

 その中に彼女がいた。

 こんなにも大勢の中で、どうして私は彼女を一目で見つけてしまうのだろう。
 色素の薄い華奢な身体、こぼれそうに大きな瞳。
 いつまでも成熟しない少女と言うよりは少年に近いその容貌。
 性別のない妖精のような彼女。

 とりたてて目立つわけでも綺麗なわけでもないのにどうしても私の目は彼女に吸い寄せられてしまう。
 不思議な吸引力に抗うように目を伏せると、ざわめきを切り裂くように
 少女の高く澄んだ声が私の名前を呼んだ。
 その声を聞くだけで私の胸は簡単に揺さぶられてしまう。

 「来てくれたんですか?」

 嬉しそうに微笑む教え子につられたように私の顔も緩む。

 「勿論よ、大事な教え子の大切な日ですもの」

 彼女を前にして三歳も年長なのに私はまるで初恋の中学生のようにドキドキして
 取り繕う事も出来ない。
 彼女はいつも私をむき出しのありのままの私にしてしまう。

 それはとても恥ずかしくて、でも、彼女だからこそ少し嬉しい。
 彼女は私の持ってはいけない感情を知ることなく、真っ直ぐな心で私に向き合ってくれる。

 彼女の笑顔一つで私の細胞は身体の隅々まで、それこそ頭の天辺から爪先まで
 生命の息吹を吹き込まれたように活性化する。

 この2年間、私と彼女は一生懸命頑張って私の通う大学へ合格するために勉強した。
 当初彼女の学力はとても低く無謀にすら思えた挑戦だったけれど、
 彼女は持ち前の素直さと頑張りでどんどん成績を上げていった。

 だから、大丈夫だと、そう言ってあげたかった。
 けれども試験当日彼女は風邪を引いていて高熱を出していた。
 受けないで諦めたくないと言う彼女は無理を押して試験を受けたのだ。

 祈るような気持ちで合格していて欲しいと、その日からずっと私は願っていた。
 あんなに頑張ったのだから合格していて欲しい。
 そして一年でいいから同じキャンパスに通って、家庭教師と生徒と言う枠を飛び越えて友達になりたかった。
 でも――。


 彼女の受験番号は合格者はもちろん補欠にさえも無かった。

 学力は充分だった。
 それほどに私達は懸命に目指していたから。

 でも、運も実力のうちというのは本当なのだ。
 当日風邪を引いてしまったのは彼女のミスなのだから。
 それでも私はどうしても諦めきれずに何度も彼女の受験番号を探し続けた。

 「先生、長い間ありがとうございました。感謝しています」

 下唇を噛んで俯き加減の彼女は気丈にも涙を見せることなく隣に立つ私に頭を下げた。
 もう、これで私達は何の関係も無い他人同士になってしまう。

 「もし、嫌じゃなかったら家まで送らせて……」

 私はどうしても震えてしまう声ですがるように呟いた。
 私の申し出に彼女は弾かれたように顔を上げて少しだけ背の高い私を見上げた。
 大きな瞳に透明な水の膜が盛り上がり、零れ落ちる。

 「先生!!」

 頑張って一人で立っていた彼女の心を私が挫いてしまった。
 でも、悲しい時には泣いて欲しい。
 一人になって泣かれるよりもどうか私に慰めさせて欲しい。
 泣きじゃくる華奢な少女を抱き締める。

 もう二度とこうして抱き締める事も顔を見ることもかなわないのだと思ったら私の目にも涙が溢れてきた。
 震える私の身体にびっくりした少女が顔を上げる。

 「先生……」

 私を見上げる顔が引き歪む。

 「私のために泣いてくれてありがとうございます。先生――大好き……」

 ぎゅっと胸にしがみついてくる小さな手が嬉しくて、でも苦しくて胸が痛い。
 大好き、と言ってくれる言葉の無邪気さに心が抉られる。
 私の薄汚れた気持ちを知らずに私を好きだと言ってくれる少女の純粋さにたまらなくなる。

 愛していると告げてその涙に濡れる頬に口付けて、
 震える唇を私の唇で塞いで少女の悲しみをすべて吸い取ってしまいたい。

 でも、この気持ちは一生告げることはかなわない。
 この、心優しい純粋な少女を苦しめたりしたくないから。

 涙が落ち着くと私達は電車とバスを乗り継ぎ、彼女の家へと向かった。
 少女は当日の体調と答え合わせをした出来の悪さから不合格だと覚悟をしていたのだと言った。
 でも、その目で確認すべきだと足を運んだという。

 「自分の目で見て確認しないと、私自身の心がきっと認める事が出来ないんじゃないかと思って……」

 その真っ直ぐな潔さに私の胸に彼女への愛がまた溢れる。
 私はどれほどこの少女に惹かれれば際限が見えるのだろう。

 本当にいつかこの気持ちを失う日が来るのだろうか。
 穏やかに少女を愛でる日が来るのだろうか。
 少女の家の門まで来ると、家に上がるようにと言う誘いを断ってずっと言いたかった言葉を告げた。

 「もう私達家庭教師でも教え子でもないけれど、その、嫌じゃなかったらこれからは友達になって欲しいの。

 出来れば他愛のない話や、ショッピングやそういう事を一緒に出来る友達になれないかしら」

 「先生……」

 彼女の顔が薔薇色に染まった。まだ涙で濡れている瞳が強く輝く。
 嬉しいと言って何度も頷く少女に自然と私の強張っていた顔も綻ぶ。

 彼女は滑り止めの女子大へ行く事になるだろう。
 年齢も違う、通う学校も違うけれど、それでもどうしても彼女との繋がりを失いたくなかった。

 「先生、電話してもいいですか??」

 「もう、先生じゃないわよ」

 「じゃあ、……名前で呼んでもいいですか?」

 「勿論よ。」

 私が手を差し出すと、愛しくてたまらない少女は一瞬躊躇うようなそぶりを見せてから、
 どうしてかとても大事そうに両手でそっと私の手を包むように握ってくれた。


                                            2006/06/11 不知火あきら




【かじ→不知火あきら様】

あきら様!! 続編ありがとうございます!!
この間、リクエストした手前、続きが読みたいなぁ〜と思っていたのですが、続きをお願いするのが
ちと申し訳ない気がしていたもんで、続きが読めて本当に嬉しいです。

ぐっと気持ちを抑える先生の気持ちが切なくて、彼女の気持ちが純粋で健気で、胸がキュッとします。
今まで身近に、とても近い人だったのに、受験が終わった事で、離れなければならない想いは
溜まらなく辛いんだろうなと思うと、切なくなります。

同じ学校に通えなくても、先生と生徒の関係から解き放たれて、今度は新しい関係を
築いて、もっと距離が近づくといいですね。(なんて、さりげなく続きを要望??←おいっ)
すみません、ちょっと調子に乗っていました。

あきら様、20000ヒットのお祝いの小説、本当にありがとうございました。

                                                  2006/06/11  かじ